蒙古 襲来 絵巻 - 蒙古襲来合戦絵巻

蒙古 襲来 絵巻 - 蒙古襲来絵詞とは

蒙古 襲来 絵巻 - よく利用される国立国会図書館所蔵資料のデジタル画像素材集 元寇

これは、日本が本格的に外国から攻められた大事件と言われていますが、はたしてどんな事件だったんでしょうか。 アジア大陸でモンゴルという大帝国が拡大する中で、他のアジア諸国、諸民族も日本と共通の運命にさらされました。 鎌倉幕府が経験したモンゴル襲来を、アジア全体の視野で考えてみたいと思います。 では、今日のポイントです。 : アジアでのモンゴル襲来、特に朝鮮半島にあった国・高麗の状況を考えてみます。 : 有名な絵巻から合戦の具体的な様子や御家人の考え方を探ります。 一遍は当時の宗教家で、鎌倉でも布教しようとしました。 一遍がなぜ鎌倉に入ろうとしたのかを「一遍上人絵伝」という絵巻を見て考えます。 1260年にモンゴル帝国の皇帝となったフビライは、中国の北半分を押さえ、現在の北京の地に大都という都を築きました。 やがて1271年には国号、国の呼び名を中国風の「元」に改めます。 フビライは、中国の南半分を支配していた南宋を征服しようとします。 さらに、東の海上に浮かぶ国・日本をも視野に入れました。 1267年末、モンゴル帝国のフビライの国書を携えた高麗の使者が、日本の対馬にやってきました。 その内容は、日本と友好関係を結んで交流したいというものでしたが、最後に「できるだけ武力は用いたくはない」と書かれていました。 この国書に警戒感を抱いた鎌倉幕府では北条時宗が執権となり、防衛体制を整えてゆきます。 それではモンゴルの動きを年表で整理しておきましょう。 1231年 モンゴルの高麗侵入始まる 1257年 モンゴル、第一次ヴェトナム侵入 1258年 高麗、モンゴルの属国に 1259年 フビライ即位 1264年 モンゴル、カラフト(今のサハリン)を攻撃 北はサハリンから、朝鮮半島、そしてヴェトナムまで攻撃の対象にしたのです。 1268年 フビライの国書、高麗からの書状が鎌倉に このとき、北条時宗が執権となります。 1270年 高麗で三別抄の乱始まる 1271年 モンゴル、国号を元とする 高麗牒状(三別抄からの救援要請文)、日本に 1272年 三別抄の乱終わる この三別抄が大事なキーワードです。 1273年 文永の役 1279年 南宋、元に滅ぼされる 1281年 弘安の役 モンゴルは東アジアの征服に莫大な労力を使っています。 その中での日本侵攻であったことが年表から分かります。 特に南宋攻略との関わりが指摘されています。 ただ日本への侵攻が1268年の国書鎌倉到着から1274年まで、時間がかかっていることに注目しましょう。 その理由の一つとして、三別抄の乱を鎮圧するためにモンゴル軍の力がそがれたことも大きいといえます。 次にフビライからの国書の内容を見てみましょう。 「通問して好を結び、以て相親睦せん」 一見、通交を求めているようですが、実は服属を要求しています。 さもなくば「兵を用いるのは誰が好むだろうか」と軍事力行使もほのめかしています。 ところで、この時、高麗からも蒙古の徳に従うようにという書簡が一緒に届けられていたのですが、3年後の1271年、また高麗から書簡が送られてきました。 それについて、当時の公家の日記で『吉続記』といわれるものを見てみましょう。 そこには、1271年に高麗から「蒙古が日本を攻めようとしている。 また食料や救援の兵を送ってほしいという書簡がきた」ということが記されています。 ところが、どうも京都の公家たちは、この書簡が言っている意味がよくわからなかったらしく、この書簡について意見が分かれたと書かれています。 さらに次の史料を見てみましょう。 1268年に高麗から鎌倉に着いた書簡と、71年のものとで食い違う不審な点を挙げています。 例えば、文永五年の書簡は蒙古の徳を賛美し、今回は蒙古を批判しています。 文永五年のものは蒙古の年号を使い、今回は記さない。 ある国の年号を使うということは、その国に従うということです。 先の書簡は「蒙古の徳に従い、君臣の礼をとる」、今回は「蒙古の習俗は聖人・賢人の忌むところ」とし、「珍島に遷都した」とあります。 同じ高麗からの書簡なのに1268年と1271年とでは、なぜこうも違っているのでしょうか。 その理由を公家たちは理解できませんでした。 1268年のものは、モンゴルの属国になった高麗政府からのいわば勧告文。 1271年のものはモンゴル軍と戦っている三別抄からのもので、日本も攻撃されるかもしないと告げると共に食糧と援軍を要請するものでした。 ところが日本はこれが三別抄からのものと分からず、同じ高麗からの手紙なのに1267年のものと内容が反対なので「不可解」としました。 結局三別抄からの書簡の真意を汲み取れないまま、文永の役を迎えたのです。 この三別抄の戦いのおかげで、文永の役が遅れたのは、間違いありません。 それではいよいよ、文永の役について、ポイント 2 「蒙古襲来絵詞」を中心に見てみましょう。 さらに「てつはう」という火薬を使った飛び道具は日本側を驚かせました。 これは竹崎季(すえ)長(なが)の奮闘ぶりを描いた「蒙古襲来絵詞」の有名な場面。 炸裂する「てつはう」、血を流す馬など、季長の苦戦ぶりが強調されています。 日本側は敵に押され、大宰府まで退きました。 一方モンゴル軍はいったんは博多に入りますが、まもなく船に引き揚げ、撤退しました。 その後、モンゴル軍が再び攻めてくると考えた幕府は、防衛体制を強めます。 敵の上陸を阻止するため博多湾沿岸に高さ3メートルの石の防塁をおよそ20キロにわたって築いたのです。 もっとも、この季長苦戦の場面には、あとから加筆された箇所があると見られています。 特に3人のモンゴル兵を他の場面のそれと比べるとよくわかります。 おそらく季長の奮戦ぶりを強調したかったのでしょう。 モンゴル側は優勢だったにもかかわらず撤退したの理由についての諸説あります。 1 暴風雨(大風)説 2 始めの予定通りの撤退 3 モンゴル・高麗の混成軍の内部で対立が起きたという説 このように色々な説があるわけですが、鎌倉幕府は、また攻めてくると考えて体制を整えていました。 高麗を攻めることもかなり真剣に検討されたようですが、結局、石の防塁に専念しました。 そして二度目のモンゴル襲来を迎えます。 ではこれについて見ていきましょう。 そして、中国南部の貿易都市・泉州などで、日本を再び攻めるための軍船を作り始めます。 1281年、弘安4年、高麗から東路軍4万が、中国の沿岸からは江南軍10万が日本へと出発しました。 6月6日、まず東路軍が福岡の志賀島に来襲。 ここで幕府が作らせた石の防塁が効果を発揮します。 東路軍は本格的に上陸することができず、いったん退きました。 7月、ようやく江南軍が到着、東路軍と合流して長崎県鷹島付近に集まりました。 しかしその時、暴風雨が艦隊を襲います。 多くの船を失ったモンゴル軍に、日本の兵士が襲いかかり、元や高麗の兵士たちを倒してゆきます。 14万もいたモンゴル軍のうち、生きて戻れた者は、3万数千人に過ぎなかったといいます。 この戦いでも竹崎季長は活躍しました。 モンゴル軍に「勝てた」理由ですが、 ・日本側の健闘〈小舟によるゲリラ的戦術、石築地〉 ・東路軍・江南軍の連絡の悪さ ・船が粗悪だった ・相手の戦い方が分かった ・暴風雨 など、さまざまな要因がありました。 しかし「異国降伏」の祈祷を行なった寺社は、「神風」が吹いて日本を守ったと主張しました。 また御家人の頑張りもありました。 御家人が(命をかけて)戦ったのは恩賞=ほうびが目的でした。 絵巻の主人公・竹崎季長は裁判で敗れて土地・財産を失い、困っていました。 文永の役で手柄を立てれば所領を手に入れられると、勇んで戦ったのです。 ところが手柄が鎌倉にきちんと報告されていないことが分かりました。 季長は文永の役の後、鎌倉に向かい、恩賞奉行の安達泰盛に直訴しました。 その甲斐があって故郷近くの地の地頭に任じられました。 そこで次の弘安の役でも活躍するわけですが、季長がずっと後になってこの絵巻を作らせた目的の一つは、自分が戦いで功績を挙げて恩賞を得たことの記念、また恩人安達泰盛への感謝の印と考えられます。 ところで恩賞の対象としては、御家人だけでなく、異国降伏の祈祷を行った寺社、さらに御家人以外の武士=非御家人も考えなければなりません。 御家人でない武士は、九州にはたくさんいたといわれています。 つまり幕府は対外戦争という非常事態の中で、その支配力を御家人以外にも拡大し強化したわけですが、今度はその体制を三度目のモンゴル襲来にも備えるためにも維持していかなければならなくなったのです。 得宗は前回出てきましたが北条氏の本流の当主でした。 将軍中心にすると得宗の立場が弱くなってしまいます。 泰盛の路線は、得宗家の家臣の代表である内管領・平頼綱との対立を生みました。 また、非御家人を組み込むことには御家人の反発もあり、泰盛は孤立しました。 1285年、安達泰盛は倒され、全国で泰盛派が弾圧されました。 これを霜月騒動といいます。 このように、モンゴル襲来はその後の鎌倉幕府の政治に大きな影響を与えました。 またもう一つ、モンゴル襲来当時の状況を宗教の面からも見てみたいと思います。 それが次のポイント 3 「北条時宗と一遍」ですね。 当時鎌倉では、仏教の新しい動きが活発でした。 そこに現れた、時宗という宗派を開いた一遍に注目してみたいと思います。 武士の都鎌倉では、当時、さまざまな仏教宗派が集まり、成果をあげていました。 一遍も、やはり自分もそこで念仏をすすめてみたいと思ったのでしょう。 しかしながら今みたように鎌倉に入ることを拒否されます。 おそらく、一遍の一行はみすぼらしい姿で集団で移動していることに加え、あとからは物乞い、つまりお金や食べ物のほどこしをうける人々もついていって、武士から追われていました。 こうした人々を鎌倉に入れたくなかったのでしょう。 あるいは、次回取り上げますが、当時幕府に敵対していた「悪党」と呼ばれた人々の同類とみられたのかも知れません。 しかし時の権力者である北条時宗に対して、死をも恐れない毅然とした態度は、人々に感銘を与えたのでしょうか。 その夜、山のそばで野宿する一遍らのもとには、鎌倉中の人びとからたくさんの食物が運ばれたそうです。 そして片瀬の浜での踊念仏の成功は先ほどのとおりです。 さて、これ以後モンゴルとの戦いの影響が、遂に北条得宗家の滅亡につながり、それが南北朝の内乱の幕開けとなります。 次回はこれをテーマに見ていきたいと思います。 どうぞお楽しみに! ページ上部に戻る 前頁へ 次頁へ.


このへんは戦国時代とは異なり、鎌倉御家人気質があるようだ。

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ところが、どうも京都の公家たちは、この書簡が言っている意味がよくわからなかったらしく、この書簡について意見が分かれたと書かれています。

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楽翁本とは、寛政年間 1789~1800 に松平定信が写させたものですから、九大本はかなり早い時期の模本といえます。

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しかし、総大将である少弐景資は、竹崎季長の一番駆けを許す事になります。

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辛勝だった。

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得宗は前回出てきましたが北条氏の本流の当主でした。

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30追記 どれも実際の現場ではなく、伝聞による神社や貴族による武士に対するこの時代の妬みの感情で書かれたものだ。

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つまり、日本が外国と戦争をするのは、600年ほど前の事になるわけです。

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因みに、本日の歩数は10,564でした。

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「文永の役」(1回目の襲来)が終わった翌年、7度目に訪れた使者を、時宗は処刑してしまう。

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